昭和四拾八年四月十八日 御理解
道教えの大綱
一、天に任せよ地に縋れよ。
どうにも仕方がない。もう手がないと云う時、例えば病気で云うなら、もう医者にも見放されたと云う様な時、天に任せよ地に縋れよ。 そういう厳しい意味合もございますし、又大きなおかげを頂きたい、いわゆるまあ、云うなら広大なおかげを頂きたい、広い大きいそして深い、いわゆる広大なおかげを頂く。その広大なおかげを頂くと云うそのおかげを頂く為には、天に任せて地に縋れよと云う信心が出来なきゃ広大なおかげ、いわゆる広大無辺の御神慮、御神徳と云うものを、いわゆる私共の上に頂き、しかもそれを現そうと云う信心。天に任せよ、地に縋れよと云う。
形のお繰合わせよりも心のお繰合わせを願えと云う様な御教えを頂いた事があります。
形のお繰合わせよりも心のお繰合わせを願えと。と、云うことは私は地に縋れよと云うことだと思う。地に縋ると云うことは自分自身の心に縋る事だと思う。
縋ると云うことは、どうぞお願いしますとか、どうぞ助けて下さいとかと云うことです。ですから、それを自分の心に縋る。自分の心に頼む、自分の心に助けて下さいと云う訳なんです。地にすがると云うことは、そういう事だと思う。
自分でです、はあこんな心の状態ではおかげ頂ける筈はないと云っとったんじゃおかげにならん。ですから、はあ自分にこういう浅ましいと云うか、こういう汚いと云うか、こうずるいと云うか、こういうイライラした心、こういう腹立たしい心、これではおかげが頂ける筈はないとこう分かる訳です。ですから、その心に縋る訳です。
どうぞ、腹が立ちませんように、どうぞ、イライラせんで済む私にならせて頂きますように。どうぞ、こういう汚い心が有ります、こういう卑しい心がです、どうぞ限りない美しい心にならせて下さいと心に縋る。
おかげは神から出ると思うな。氏子の心から出ると思えと、四神様はそういう風に教えておられます様に自分自身の心に縋ると云うことは、それだけやはり精進しなければならんと云うことです。
自分の心の中に楽を求めたり、楽な心ばっかりが動く、そういう時にです、これではいけんいけんと思うて、と云う心は心に縋ると云うことだと思う。
そして自分の心に縋って自分の心が有難い事になって行くと云うことを私は今日は地に縋る、同時に自分の様な者がと分かるこう分かる為には、自分と云う者がいよいよ堀下げられなければ分からないこと。
もう人間じゃけん、こん位な汚い心はもう当り前だろうと云うたところには、心に縋ると云うことは出来ませんから、こういう心でおかげにはなるまい、おかげ頂ける筈はないと云う、その心をとっちめると云うか、その心に縋るのです。
と、云うことは自分自身をいよいよ深めると云うことになるのです。
今日、私は広大なおかげを頂くと云うことは広いだけじゃいかん、浅あくちゃいけん。例えば浅いところに大きな魚が住む筈は有りません。いくら広かっても・・・
そんな人がありますよ。よい信心をしているけれども、深さがない。だから広いから広い意味合に於ておかげを受けておる。けれども、そのなんと云うですか、真に有難いと云うか、深あいところから湧いて來る有難いじゃないですから、おかげもいわゆる浅い。いわゆる平面的なおかげしか頂けません。
深いおかげを頂かせて貰う。それは自分自身をいよいよ分かっていくと云うこと。そして分かれば分かる程、成程これではおかげの頂けん筈だなと云った様なものに縋っていく。それを今日は自分の心に縋ると云うことをです、私は天地に縋ると。
天に任せよと、これは私は広い心だと思う。いわゆる形のお繰合わせより心のお繰合わせを願えと云うこと。いわゆる形のお繰合わせ、これはいわゆる神様任せ、親先生任せとこう。天に任せると云う訳です。そこで任せきると云うその心の状態に確かにおかげが頂かれる。けれどもそれだけでは、只広いと云うかねえ、広おいおかげは受けられるけれども、深あい云うならばおかげは受けられない。 心に縋り、そして任せると云う信心が二つ足ろうていかなければいけん。
「そげなこつして貰うなら私の顔が潰れる」と云うことを言う。「あの人は仲々顔の広い人だ」とこう言う。
だから顔の広い人はやはりおかげが広うなってくる。あの人の顔が広いとこう言うたら、今度は私の顔を潰したとこう言う。私の顔がなくなって仕舞うたと、そう云う訳です。私はその筈だと、潰れる筈だとそこにいよいよ自分と云う者が分かった姿です。
ですから、顔を潰される様な時に、それを有難いと頂けた時です。ああたの心は深まった時であると同時に、地に縋らなければ、自分の顔を汚した。自分の顔を潰した、そういう時に私共がそういう事をして貰うちゃ、私の顔がないじゃないかと、もうそう云うたんでは、やはりそれ迄の事。顔を潰されたと云う様な時に、成程潰される筈だと云うものを自分の心に感ずる。
だから、自分の心が成程と自分を例えば、そんなら軽う見られると致しましょうか、人の前で自分を軽う見た、自分を馬鹿のごと思うとると云う時に、成程こげな私じゃから馬鹿にされる筈だ、軽う見られる筈だと云うものを自分の心に発見する。
そして相手どころじゃない、自分自身の心に縋っていく。こういう生き方が信心が深うなっていく事なんです。顔を潰されたと云う様な時、いよいよ信心は深うなっていく。云うなればそういう時こそ地に縋る信心が必要な時なのです。
そういう心の状態と同時にです、もう神様の前に、云うなら無条件降伏、両手を上げて私にはどうにも出来ません。お任せ致しますと言うた時、だからそのお任せしますと云う心の状態におかげは受けられる。けれども、このおかげは広くは受けられても深さがない。
私は今日は広大なおかげを受けると云うことを聞いて頂いた。成程、天地の親神様の御神慮、御神愛と云うものは広大無辺です。だからどの広大無辺の御神愛を受ける為にはです、広大無辺の御神慮を分からにゃいかん。広大無辺の御神慮と云うのは神様の深い深い思いを分からせて貰らわにゃいけん。
昨夜合楽会でございました。それこそ今頃早く始めて早く終る。皆さん朝参りをなさる方ばっかりですから、・・そういう申し合わせがありましたから、もう十時半になったらもう話を切ろうと。
けれどもお話が佳境に入って来ますと仲々立てんのです。そして又次から次と有難い話が出てくるもんですから、三、四十分位又遅くなったでしょう。
その中でまあどんなに考えても有難い有難い神様の働きの中に、こういう間違いのない働きの中におかげを受けて居るのですからと云うお話をさせて貰った。
例えば、十三日から昨夜迄と云う話をさせて貰った。十三日から昨日の竹内先生の所のお母さんの告別式の事から、それから今晩の合楽会の事迄を話させて貰った。
もう本当に十三日から思うてみると、もう本当にもうそれこそ心臓が止まる様な事がその中にあったり、まあ有難うしてこたえん。とに角たまらん程しの有難い今度の大祭程有難い大祭はなかったと云うて昨夜の反省会の時にも話させて頂いた事ですけれども、そういう有難い御大祭が中にあったり、堤さんのあの十三日の朝の御祈念の半ばにああ云う不幸な事があったり。
けれども、そのところがもうそれこそ軌道を乱さず、もうそれこそ一分一厘の間違いない働きで一つの軌道の上を走ってる機関車の様にスムーズに今晩までこの様なおかげ頂いておると云う話をした。 十三日会の大祭前のあの内外の清掃。朝はああ云う事がここのお広前で起こった。けれども、それはもう本当に神意、神愛、云うなら今日の御理解で云うと、何処迄深いか分からない神様の、深あい御神慮の中で起こっておる事だなと思わなければおられない状態の中におかげを頂いておる。
だからその為に次の御用が、例えば一糸乱れる事もなかった。合楽で一番大事な、いわゆる御神願成就の日、神様の願いが成就する日と言われる。人間が死ぬると云うことが、どうして神様の願いが成就する事じゃろうかと、そこ迄言や浅い考えですけれども、それを深あく頂いたら、神様の深い深い御神慮の中にあって起きてきた事なんだと思うところから御礼を申し上げる心も生まれてくる。意味は分からない。どうしてかハッキリそれをつまびらかにする訳にはいかぬ神様の御神慮と云うものは。
けれどもその辺のところが感じられ分かるからこそ、堤さんのお父さんがここへ出て「おかげを頂きました!」と云うことになっておる。その「おかげを頂きました!」と云うことは意味は分からん。それは神様の深い深い御神慮の中に起こって居ることであるから間違いはないと信ずるから有難いと云うことになって來る。
只手前の方で分かると云うことは、今日は有難い、私共の云うならば私共の生神様であったところの三代金光様のお国替えの月も日も同じ日であると云う日にお国替えのおかげを頂いた。しかもお母さん親先生の膝元でお国替え、こげな有難いおかげが有るもんかと云われた。ここんにき迄は分かるけれども、そのもう一つ向こうの深さ、御神慮と云うものは分からない。もう段々おかげを頂いてみて、ああ、ああ云う御都合であったなあ、ああ云う御神慮であったなあと云う事が分かる。
分からない信心の浅い者がとよう云うたからと云うて、そんなら顔にかかわる様な事、顔が潰れる様な事を言われるかも知れませんけれども、その潰れる様な事を言われた時にこそです、清さんの奥さんの照枝さんが言われる様に、主人が言い残しておったいつも言いよった、もう馬鹿になる事以外にない。阿呆になる以外にはない訳はない。そういう生き方がです、今日は地に縋ると云うこと。そういうところから、深い深い信心と云うものが生まれて來る。
前の日までお湿りであったおかげで、例えば清掃も大変しよかった。草も大変取れよかった。終日内外の御用を頂かれて十三日から十四日、十四日はお家で御用させて貰う。
まあその辺のところを色々ありますけれども、それが合致することがない。素晴らしいタイミングの中にすりがわなければいけないものはすりがわして下さり、会わなければならないものは合わせて下さっての十四日お湿りであった。
同じ十三日の日にやはり竹内先生の所のお母さんのお国替えと云う電話が掛かってきた。それから若先生と先生方であちらへ遷霊に参りました。それから翌日は密葬がございましたから密葬の為やらせて頂いた。
こちらは合楽の大祭の前の日だからもうてんやわんやしとるからと云うて、ひとっつもこちらに差障りもないお繰合わせを頂いた。そして十六日のあの御大祭を頂いた。前の晩迄はあの様にひどい雨であり風であった。御大祭は曇ってはおったけれども、終日おかげを頂いてそして夜には又ああいう雨風であった。
私はその日夜中に出て参りましたら、もうそこがだだもりしよる。研修室が・・・それから改めてさせて頂いたが、あれが少し時間がずれておったら昨日の告別式にどういう事になっただろうかと思う。 もうそれこそ、素晴らしい有難い告別式を昨日終えさせて頂いた。 家内が、今日はこうして告別式だから今日の反省会はとても出来ませんでしょうと云うて、お届けに来ましたから「そげなことがあるもんか、告別式が済んでから反省会が出来るくさい」と、いうて「そんなら準備していいですね」と云うから「ああ準備して貰わにゃ」と云うので準備させて頂いて丁度もうそれこそ、慌てることもなからなければ、遅うなったと云うこともない。丁度よい、有難い反省会が出来たでしょうが。
反省会でちょっと御神酒が過ごしましたから、はあ今日は合楽会じゃばってん、合楽会にはもう出られんかも知れんと、こう思うてやすんだ。ところが丁度その合楽会が始まる時間に目が覚めた。それから起こして頂いて夕べの合楽会に参加させて頂いたと云うところ迄をです、思うてみてもう神様の一分一厘間違いのないお働きの中にこうして、あああっておるんだと云う事を。
それは天地の例えば、運行と申しますか、の様に一分一厘一つ間違うたらどういう事になるか分からない程しの事がです、そういう例えば忙しい、又はけたたましい、又は有難い様々な事柄問題がそれはそれなりのおかげの中に、ここ三、四日おかげを頂いておる。 これは三、四日だけの事ではない、いつもがそうである。
もう思うてみりゃ思うてみる程神様の御神意、御神慮の深さに恐れ入って仕舞う。その深い深い意味に於いてのおかげを体験させて頂ながら、そして広い意味に於いてのおかげを頂いておる。
御大祭もお届け帳に、いつもは七、八百名位ですが、今度は千名からのお届けがあったと昨日久富先生からお届けがあっとります。 と云う様に、そういう段々広大無辺なおかげに触れさせて頂き広大無辺なおかげを頂きながらおかげを頂いてきておる。
そこでそんなら、そういう例えば合楽のおかげと云うものがです、天に任せよ、地にすがれよと云う様な信心が段々身に付いてきたからではないかと思います。
只どうにも出来ない、医者から見放された、もう天に任せて地に縋るより他ないと云うて拝むという意味合ではなくて、今日私は地に縋れと云うことを自分の心に縋ると云う風に聞いて頂いた。
天に任せよと云うこと、それは広大無辺、御神慮の深さとか云うものはどこ迄限りがあるやら分からんのですから、訳は分からんけれども、それを任せるより他にないと云うこと。
それは例え顔にかかる様なことは言われても、けれどもそこんところをです、どうして私の顔を立てて呉れるか、どして私の心をきれいにして呉れるかと云うのではなくてです、成程汚される筈だ、潰される筈だと云うものを自分自身の心に分かっていけと云う風に今日は聞いて頂いた。
そういう生き方こそがいよいよ深い広いおかげに、いわゆる広大無辺のおかげにつながると云うことを聞いて頂きました。
取分け今日はね、御神前に出らせて頂きましたら、目もなからにゃ鼻もないと云う顔を頂いたんですよ。だからこれは、ははあ顔がないと云うことだろうと思うた。ですから、今日の御理解のヒントにさせて頂いたわけですけれども、そげなこつして貰うなら私の顔がないじゃないかと云う様な時程です、それを言わずに自分自身の心の上に縋っていくというおかげ、形のお繰合わせよりも心のお繰合わせを願えと云うことはそういう事。
だから、心のお繰合わせを頂くから心のお繰合わせはそれに伴って行くと云うことですね。 どうぞ。